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資料解題
『空華老師日用工夫略集』
- 本書は南北朝時代に鎌倉・京都の五山諸寺で住持を務めた臨済僧義堂周信(1325~88 )の日記です。義堂は南北朝後期の五山を代表する僧とされ、その詩文集『空華集』や語録『義堂和尚語録』は、同門の絶海中津(1334~1405 )の著作とともに、五山文学の代表作として知られています。また本『略集』は、禅僧の日記として現存する最古のものであるだけでなく、南北朝時代の鎌倉府や室町幕府の様子を伝えている点で、他に代えがたい価値のある歴史史料とされています。
底本など
- 日文研所蔵近世写本(4巻4冊。架蔵番号HM/175/Gi)を底本とし、『略集』の全文を翻刻しました(流布本も参照して適宜校訂を施しています)。『略集』は早く『改定史籍集覧』に収録され、1939年には太洋社より単行で刊行されている他、1982年には思文閣出版より蔭木英雄による訓注本も刊行されていますが、テクストデータはこれまで公開されたものがありませんでした。
- 日文研本には南禅寺帰雲院の蔵書印(朱陽方印「龍山/帰雲院」)があり、帰雲院旧蔵書であることが分かります。神田信醇(1854~1918)の蔵書印「神田家蔵」「信醇私印」と「明治廿三年印」も捺され(いずれも朱陽方印)、明治23年(1890)以前に流出して神田家に入っていたと見られます。また永徳元年5月3日条には、「拉」の説明として「拉、力答切、折也、字典、諺言邀入同行曰拉」という、流布本にない割注がありますが、ここに見える「字典」は康煕55年(1716)撰『康煕字典』の引用と見られるので(引用文も同文)、これを引く日文研本は18~19世紀、江戸後期の写本ということになります。なお日文研本は、巻3と巻4の切れ目が流布本と異なり、流布本で巻3に含まれる永徳3年・至徳元年分の記事が巻4に含まれています。これについてはデータベース上で、「巻4(流布本巻3相当)」と表示しています。
- 『略集』は日文研本以外にも近世以後の写本しか伝わらず、中世の伝来は不明です。本書末尾の略伝に「日用工夫集四十八卷、今是集略而書焉」とあり、『略集』は義堂の原日記『日用工夫集』48巻(佚書)から略抄したものであることが分かります(ただし貞治5年条以前は義堂が書いた自伝。他に義堂門人の加筆箇所もあり)。康永元年条には、原日記で現存するのが48冊中40冊のみとあり(「日記凡四十八冊、今現存者四十冊、其餘遺失而不見」)、『略集』が作成された頃にはすでにその一部が失われていたようです。
異本・逸文など
- 建仁寺両足院所蔵の『刻楮』と題する冊子中の水部第3冊に、義堂周信の日記の抄出が含まれることが、玉村竹二氏によって紹介されています(玉村「空華日工集考」)。表紙には「日功集」、内題には「日用工夫」とあり、104条の記事を収めます(玉村氏は103条としますが、玉村氏が69条目とする記事の途中に切れ目を示す符号が見えるため、本データベースではこれを2条に分けました)。その内の40条は『略集』と共通する部分を含みますが、64条は『略集』未収記事であり、『略集』とは別に作成された『空華日用工夫集』の抄出記事と考えられます。本データベースでは玉村氏の命名に従い、これを『空華日用工夫集別抄』と呼んでいます。データ作成は、東京大学史料編纂所の写真帳(架蔵番号6109/4)に基づき、玉村竹二「空華日工集考」の翻刻を参考として行ないました。
- 『刻楮』は室町時代の五山を代表する瑞溪周鳳(1391~1473)が諸書の抜粋を書き留めた『刻楮集』の写しと考えられます。瑞溪の伝記『興宗明教禅師行状』に「刻楮集二百巻有り、四方の書読まざる莫(な)く、読まば則ち抄せざる莫し。いわゆる二百巻、是なり」とあり、『刻楮集』はかつて200巻に及んだとされています。また天隠龍沢(1422~1500)が作成した『刻楮集』159巻の目録があります(『刻楮』金部第10冊)。この目録の巻56に見える「慈氏日工集」が、義堂周信(南禅寺慈氏院開山)の『空華日用工夫集』に当たります。『刻楮』水部第3冊に収録されるものは、その写しと考えられます。瑞溪周鳳は文安4年(1447)に南禅寺慈氏院で『日用工夫集』を閲覧しており(『蔭涼軒日録』延徳4年3月7日条)、瑞溪が『別抄』を作成したのはこの頃と玉村氏は推定しています。
- さらに玉村竹二氏は、建仁寺両足院所蔵の『略集』に、他本にない永徳2年3月6日条の記事が1件含まれていることを紹介し、また東福寺僧太極の『碧山日録』および相国寺僧桃源瑞仙(1430~89)の『史記抄』に、『略集』に見えない『空華日用工夫集』逸文が各1件あることを指摘しています。さらに住吉朋彦氏は東福寺僧岐陽方秀(1361~1424)の『碧巌録不二鈔』にも逸文があることを紹介しました(住吉「不二和尚岐陽方秀の学績」)。本データベースには、これらも収録しています。
- さらに本データベースには、義堂の師に当たる夢窓疎石(1275~1351)の伝記『夢窓国師碑銘』(洪武9年、明人宋濂撰述)も収録しました。これは日文研本『略集』には収録されていませんが、流布本の多くが巻4の末尾に附載しているものです。本データベースでは、国立公文書館所蔵本(教部省旧蔵本。架蔵番号162-0142)に基づき、夢窓疎石『夢窓国師語録』巻下之二(『大正新修大蔵経』第80巻)を参照しつつ、データを作成しました。
- なお建仁寺両足院所蔵史料のデータ公開に当たっては、両足院様よりご許可を賜りました。厚くお礼申し上げます。
『十禅支録』
- 本書は臨済宗の僧虎関師錬(1278~1346)の語録です。編者は虎関門下の某人です。虎関は京都の三聖寺・東福寺・南禅寺などに歴住した、初期五山を代表する学僧で、日本初の仏教史書『元亨釈書』の撰者としても知られています。虎関の学問・思想に関しては多くの研究があり、特にその詩文集『済北集』は初期五山文化を考える上で重要な作品とされますが、語録の『十禅支録』『続禅支録』は、これまで翻刻すらされていなかったため、このたびデータベースとして公開しました。
- 本書は開堂・上堂・小参(附陞座)・拈提・普説・法語・対機・立地・偈賛・秉拂の十門で構成されます。十項目の分類は、『元亨釈書』『宗門十勝論』『禅戒軌』『正修論』『病儀論』など、虎関の著述にしばしば見られるものです。『十禅支録』序が、「予、古今の禅冊を考訂するに、十門を備う」という虎関の発言を記すように、十門の編成は古今の禅籍を参照したものとされていますが、実際には同様の編成は日本・元の語録に類例を見出せません。中国禅宗の祖師の語録に見える編目を参照しつつ、虎関の思想も反映して独自に考案したものと考えられます。
- 書名の「十禅支」は、禅定において観察の対象とされる地・水・火・風・青・黄・赤・白・空・識の十法を言うのが本義です。『十禅支録』序は「若夫(もしそれ)禅は、応に十支有るべし。梵網に見ゆ」という虎関の発言を記し、典拠として『梵網経』を挙げます。実際に『梵網経』には「常に百三昧・十禅支に入り、一念智を以て是の見を作し…」「一智を以て有無二相を見、一智を以て十禅支に入り三十七道を行ずるを知り…」等の経文が含まれます。ただし虎関がこの時に十禅支を挙げたのは、弟子から項目数を10とした根拠を問われた時に、十禅支という仏教語になぞらえたことを回答したものであり、十門が十禅支の各法に対応しているというわけではありません。
- 『十禅支録』序に拠れば、本書は虎関が東福寺住持を退いた建武元年(1334)12月の後、虎関の三聖寺・東福寺住持時代(1326~34)の法語を弟子がまとめたものとされています。また虎関の伝記『海蔵和尚紀年録』には、『十禅支録』の初版本が洛上人(大中成洛)によって建武2年(1335)4月に開版された記事があります。建武2年4月は『十禅支録』序の日付(乙亥孟夏吉日)でもあります。しかし『十禅支録』には、建武2年4月以後の法語も数点確認されます。たとえば巻下、立地には、建武2年11月22日に示寂した双峰宗源の火葬の折の法語が見え(『双峰国師年譜略』に拠れば火葬は23日)、また巻上、陞座に収める「為松嶺和尚慶五部大乗経陞座」は、『海蔵和尚紀年録』に拠れば暦応元年(1338)のものです。序が作られてから実際に刊行されるまでの間に補入があったか、または再版・三版(後述)の時に増補があったのかもしれません。
- なお本語録の各門は、一般的な語録と異なり、時系列ではなく内容別に配列されており、そのため年月日が不明なものが極めて多くなっています。本データベースでは記事の内容や関係史料を参照しながら、可能な限り年代・日付の特定を行なっていますが(煩雑なため考証過程は記していません)、年月日不明記事の存在もご留意の上でご利用下さい。
底本など
- 底本としては国立国会図書館所蔵の近世初期版本(上下2巻、2冊。架蔵番号821/3/54)を用い、全文を翻刻しました。なお国立公文書館にも同版があり(和学講談所旧蔵本。架蔵番号193/0439)、不鮮明な文字や乱丁の確認(上・下巻の38丁目に入れ違いあり)に利用しました。
- 底本の内題は「虎関和尚十禅支録」、外題(近代)は「虎関和尚禅支録 一」「虎関和尚禅支録 二」。上巻の1・2丁目表と下巻の1丁目表の右上に「帝国圖書館藏」の朱方印、上・下巻の右下に「圖/明治三九・七・七・内交」の二重丸印があり、1906年に帝国図書館(国会図書館の前身)の蔵本となったことが分かります。また上巻2丁目表と下巻1丁目表の右上には「瑞巌圓光禪寺藏書」の朱方印、上巻1丁目表の右下には「圓光寺常住」の墨書があり、京都伏見の瑞巌山円光寺の旧蔵書であることが知られます。
- 本書の上巻「上堂」の後と下巻の巻末には、刊記があります。下巻刊記に拠れば、本書は相模国の成洛なる僧が虎関の親書の本を刊行したのが初版でした。また成洛による再版本も存在し、東福寺海蔵院に収められたことが知られます。初版本が建武2年(1335)4月刊行とされていることは、先述しました。再版本の刊行は、虎関が海蔵院に隠居した暦応4年(1341)以後と考えられます。洛上人が康永2年(1343)に虎関の『正修論』を開板したことが『海蔵和尚紀年録』に見えるので、『十禅支録』もこの頃に再刊されたのかもしれません。三版は済北庵(虎関の塔所)の月岩令在が応永年中(1394~1428)に開版したと言います。月岩は応永22年(1415)に『続禅支録』を開版しているので、三版も同じ時に刊行されたものでしょう。底本の近世初期版本は、これに続く四版本で、応永版に基づき刊行されたものと見られます。なお初版~三版本の現存は確認されていません(成簣堂文庫に五山版所蔵との情報は誤)。
- 下巻刊記に拠れば、四版は初め上巻のみ刊行した後、金嶽居士なる者の助縁を得て下巻までの刊行が果たされたことが知られます。上巻「上堂」の後の刊記には、「優婆塞戒孤月」を施主として刊行したことが記されますが、当初の刊行箇所はここまで(つまり上巻の一部のみ)だったと考えられます。また上巻刊記には、願主として釈智徹の名も見えます。これは丹波瑞巌寺中興の見叟智徹(1613~87)で、その伝記『瑞岩中興見叟大和尚行記』(『瑞巌寺誌』所収)にも、見叟が虎関所撰の『仏語心論』『正修論』『十禅支録』および『海蔵和尚紀年録』を刊行したことが記されます。四版本の刊年は明記されませんが、見叟は続編の『続禅支録』を慶安4年(1651)に刊行しているので、おそらくこれと同時か少し前でしょう。なお『見叟大和尚行記』には、『続禅支録』が『十禅支録』とともに刊行されたとありますが(「亦得檀施、与前録偕新刊焉」)、両書は版式が異なるため、同時刊行ではない可能性もあります。
『続禅支録』
- 本書は臨済宗の僧虎関師錬(1278~1346)の語録で、『十禅支録』の続編に当たります。編者は虎関門下の某人です。『十禅支録』で設けられた十門の内、開堂・上堂・小参・陞座・拈提・立地・偈賛の六門で構成され、普説・法語・対機・秉拂の四門は収録しません。また末尾には、夢巌祖応(東福寺40世。?~1374)が撰述した虎関の伝記『虎関和尚行状』も附録として収めています。上堂法語は三聖寺(再住)・東福寺(再住)・南禅寺住持の時代(1335~41)のものですが、偈賛などには南禅寺から引退した後のものが含まれている可能性もあります。本書の影印は2012年に中国の人民出版社から刊行された『日本五山版漢籍善本集刊』14巻に収録されましたが、翻刻は行なわれていません。
底本など
- 国立国会図書館所蔵の応永22年(1415)刊の五山版(1巻1冊。架蔵番号WA6/18)を底本として、全文を翻刻しました。また国立公文書館所蔵の近世版本(和学講談所旧蔵。架蔵番号193/0439)に見える巻末刊記も、参考として翻刻しています。なお五山版と近世版本はともに20字×10行で改行・頁送りは一致しますが、覆刻ではなく、字形が異なる上、五山版にある界線が近世版本にはありません。
- 底本の内題は「虎関和尚続禅支録」、外題は「虎関録 全」。1丁目表の右上に「帝国圖書館藏」の朱方印、右下に「圖/明治三八・三・三〇・内交」の二重丸印があり、1905年に帝国図書館(国会図書館の前身)の蔵本となったことが分かります。また最終丁裏の左下には「寿」の墨書があり、旧蔵者と関わるものと考えられますが、誰の手によるものかは不明です。本文の後(『行状』の前)には応永22年10月の刊記があり、洛北済北庵の月岩令在(?~1425)が刻工に命じて刊行し、南禅寺に寓居していた明山桂文(月岩の法嗣)が字を書いたことが知られます。『十禅支録』三版も同じく月岩によって、応永某年に刊行されましたが、『続禅支録』と同時の刊行かもしれません。
- 近世版本には、応永版刊記の後に「慶安四年臈月念七」(慶安4年12月27日)の刊記があり、慶安4年(1651)に刊行されたことが分かります。願主は『十禅支録』四版本も刊行した丹波瑞巌寺中興の見叟智徹(1613~87)です。施主は「優婆塞帰本」という人でした。見叟の伝記『瑞岩中興見叟大和尚行記』(『瑞巌寺誌』所収)に拠れば、虎関の語録としては『十禅支録』2巻が知られていましたが、見叟はなお遺冊が存する可能性を考えてこれを求め、東福寺艮岳院で手に入れて『十禅支録』とともに刊行したといいます。参考までに、以下に『行記』の原文を挙げておきます。
- 初十禅支、希存者但両巻也耳。師独疑恐有遺冊乎、頻捜索之。聆者或听曰、振古但双巻耳。叟独労穿鑿何哉。後有一僧、果於一院(頭注「一院、東福艮岳院ナリ」)古冊堆中而獲之、以呈師、々喜不自勝。亦得檀施、与前録偕新刊焉。先笑者、皆慎幽知。
『海蔵和尚紀年録』
- 本書は臨済宗の僧虎関師錬(1278~1346)の編年体の伝記で、編者は虎関法嗣の龍泉令淬(万寿寺32世。?~1364)です。本書は南北朝時代の僧伝でも史料的価値が高いものの一つで、『十禅支録』『続禅支録』と関連する記事も多く含みます。『続群書類従』第9輯下、巻232に収録され、よく知られた本ですが、『続群書類従』の活字本は誤刻が少なくないため、改めて全文を翻刻しました。
底本など
- 1933年に古板復行会が刊行した東福寺霊源院所蔵の近世版本の複製本を底本としました(内題「海蔵和尚紀年録」、外題「海蔵虎関和尚紀年録」、蔵書印無し)。末尾には丹波瑞巌寺中興の見叟智徹(1613~87)の刊記と虎関門流(臨済宗聖一派海蔵門派)の宗派図を付収します。刊記の日付は正保4年(1648)11月8日で、刊行はこれからあまり隔たらない頃と考えられます。宗派図は虎関から数えて十世の僧まで収めています。その中の一人「南禅〈剛外〉令柔」は東福寺230世の剛外令柔(1563~1627)で、元和9年(1623)に南禅寺公帖を受けたため、宗派図では「南禅」が冠されています。宗派図は元和年間頃までの僧を収めていることになります。
- 刊記に拠れば、見叟は虎関の伝記を探し求め、太華令瞻(東福寺241世。1610~91)から東福寺龍眠庵所蔵の印本『紀年録』を得ました。龍眠庵は海蔵門派が相伝した塔頭なので、派祖の虎関の伝記を伝えていたのでしょう。この本は月岩令在(?~1425)が刊行し、明山桂文が字を書いたものでした。月岩刊・明山書の組み合わせは、応永22年版『続禅支録』と共通し、『十禅支録』三版本も月岩が応永年間に開版したことが知られるので、『紀年録』の旧版もこれらと同じ頃に刊行された五山版と見て良いでしょう。なお明山は月岩の法嗣、月岩は龍泉の法嗣、龍泉は虎関の法嗣で、図示すると虎関師錬―龍泉令淬―月岩令在―明山桂文となります。
- 残念ながら、月岩刊行の五山版は現存しません。正保版は見叟が奈良の辻元宗二(智嶽居士と号す)に命じて五山版を再刊させたものです。なお宮内庁書陵部には、江戸末期から明治初期にかけて和学講談所で編纂された『続群書類従』原本が保管されますが(架蔵番号453:2)、その巻232に収める『紀年録』は、近世版本『紀年録』に『続群書類従』の表紙を付けて『続群書類従』の一巻としたものです。裏表紙の見返しに「海蔵院施本」の墨書があり、東福寺海蔵院が頒布したものと分かりますが、刊記や宗派図がありません。また東京大学文学部蔵本等、刊記のみあって宗派図のない本も知られます。
- 『紀年録』のテクストを考える上で重要なのが、東福寺霊源院所蔵の『紀年録』稿本です(内題「海蔵和尚年譜」、外題「紀年録案」)。これは龍泉令淬自身の手に成る草稿本で、近世版本を遡るテクストとして重要です(国指定重要文化財)。東京大学史料編纂所に1908年作成の影写本があり(当時は東福寺海蔵院の所蔵。架蔵番号3016/31)、本データベースではこれも参照して校訂に用いました。
参考文献:
- 田中久夫・玉村竹二1961「海蔵和尚紀年録」『群書解題』2、続群書類従完成会
- 伊藤東慎1969「瑞溪周鳳の『刻楮集』について」荻須純道編『禅と日本文化の諸問題』平楽寺書店
- 川瀬一馬1970『五山版の研究』日本古書籍商協会
- 福島俊翁1974「虎関」『福島俊翁著作集』2巻、木耳社
- 玉村竹二1979「空華日工集考―別抄本及び略集異本に就て―」『日本禅宗史論集』下之一、思文閣出版
- 玉村竹二1983『五山禅僧伝記集成』法蔵館
- 宏衟師絃1992『瑞巌寺誌』開山大通和尚五百年大遠諱局
- 今泉淑夫1995「虎関師錬の生涯と業績」『本覚国師虎関師錬禅師』禅文化研究所
- 住吉朋彦1995「不二和尚岐陽方秀の学績―儒道二教に於ける―」『書陵部紀要』47
- 榎本渉2013『南宋・元代日中渡航僧伝記集成 附 江戸時代における僧伝集積過程の研究』勉誠出版
- 榎本渉2014「日記と僧伝の間」倉本一宏編『日記・古記録の世界』思文閣出版