日伯新聞
1924-39年/サンパウロ発行
Museu Histórico da Imigração Japonesa no Brasil(ブラジル日本移民史料館)蔵
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解説
1916年8月、サンパウロにて金子保三郎と輪湖俊午郎によって創刊された。 Nippak Shimbunを掲げた。金子はビジネス感覚を持つ愛知県人、長野県人の輪湖はソルトレークの『絡機(ロッキー)時報』で働いたことがあり、 星名謙一郎の『南米』紙(1916年1月創刊)に続くブラジル二番目の日本語新聞として、 週刊8ページの体裁で始められた。1919年6月、三浦鑿(さく)が社主兼編集長になってから、 領事館寄りの『伯剌西爾時報』に対抗する草の根移民寄りの方針が鮮明になり、彼の明快で鋭い記事が読者の共感を得て、 1938年にはブラジル最大の部数(19,500部)を誇る日本語新聞となった。 彼の激しい文章は外務省筋の反感を招き、論敵を多く生み出した。 1931年、いったん国外追放の目に遭ったが、半年後にブラジルへ帰国、しかし1939年に皇室侮辱を理由に再び反対派の怒りに触れ、 『日伯新聞』の発行禁止処分(5月27日)を受けた。 三浦自身、『日伯新聞』終刊直後に追放の身となり日本へ「亡命」したが、官憲により収監され、 終戦により出獄直後の1945年10月に東京にて没した(前山隆『風狂の記者』御茶の水書房 参照)。