亜爾然丁時報
1924-44年/ブエノスアイレス発行
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解説
1924年5月、ブエノスアイレスにて水野勉によって創刊され、初代編集長は岩本時仏だった。 二人は在亜日本人会改造団に所属し、移民啓蒙の考えを持っていた。 初期は謄写版。戦前のアルゼンチン日本人社会の中心的な言論の場として機能し、El Argentin Djijoとスペイン語題をつけている。 アルゼンチンの日本語新聞としては、 丸井三次郎による『ブエノス・アイレス週報』(1915年4月創刊、1922年1月より同紙経営者池田誠造が『亜国時事』を創刊)、 『日亜時報』(1917年2月創刊)に次ぐ。 『亜爾然丁時報』の後には『週刊ブエノス・アイレス』(1926年11月創刊、謄写版、1935年廃刊)が続き、 1920年代後半から約十年間は二紙体制が維持された。1930年代には『日亜時事』(1934年4月創刊)、 『ラ・プラタ新報』(1936年1月創刊。戦後の『亜国日報』に継続)が続き、 移民社会の規模の割に新聞界は活気を帯び、『亜爾然丁時報』『日亜時事』『南亜日報』の三紙体制が整えられた。 そのなかにあって『亜爾然丁時報』は読み物、ゴシップ記事が多く大衆紙の性格を持った。 アルゼンチンは第二次大戦開戦に関して中立を掲げたが、1945年3月には連合国側への加担を決め、 日本とは敵国関係となり、邦字紙はすべて廃刊を余儀なくされた。
1924年5月、ブエノスアイレスにて水野勉によって創刊され、初代編集長は岩本時仏だった。 二人は在亜日本人会改造団に所属し、移民啓蒙の考えを持っていた。 初期は謄写版。戦前のアルゼンチン日本人社会の中心的な言論の場として機能し、El Argentin Djijoとスペイン語題をつけている。 アルゼンチンの日本語新聞としては、 丸井三次郎による『ブエノス・アイレス週報』(1915年4月創刊、1922年1月より同紙経営者池田誠造が『亜国時事』を創刊)、 『日亜時報』(1917年2月創刊)に次ぐ。 『亜爾然丁時報』の後には『週刊ブエノス・アイレス』(1926年11月創刊、謄写版、1935年廃刊)が続き、 1920年代後半から約十年間は二紙体制が維持された。1930年代には『日亜時事』(1934年4月創刊)、 『ラ・プラタ新報』(1936年1月創刊。戦後の『亜国日報』に継続)が続き、 移民社会の規模の割に新聞界は活気を帯び、『亜爾然丁時報』『日亜時事』『南亜日報』の三紙体制が整えられた。 そのなかにあって『亜爾然丁時報』は読み物、ゴシップ記事が多く大衆紙の性格を持った。 アルゼンチンは第二次大戦開戦に関して中立を掲げたが、1945年3月には連合国側への加担を決め、 日本とは敵国関係となり、邦字紙はすべて廃刊を余儀なくされた。